裏切りの日

●裏切りの日
 6月2日は、裏切りの日です。
 1582(天正10)年6月2日(ユリウス暦では1582年6月21日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1582年7月1日[1])。本能寺の変で、織田信長明智光秀に裏切られて攻められ、本能寺で自害したことに由来します。
 本能寺の変は、中国の毛利攻めに難儀していた羽柴秀吉の援軍を命じられた明知光秀は、進軍の途中で、目的地を、京都・本能寺に宿泊していた主君信長と後継者の信忠を襲ったクーデターです。
 本能寺の変によって、襲撃を知った信長は近侍の森蘭丸に誰の襲撃か尋ね、光秀と聴くと「是非もなし」と応えて自害したと、信長公記に伝えられています。
 本能寺の変は、当時、天下人の地位に最も近かった織田信長と嫡男であり後継者でもある織田信忠を、有力家臣の一人であった明智光秀が亡き者にするという、日本史上においても最重要事件の一つです。
 このクーデターには謎が多く、動機については、定かではありません。
 このことから、現在でも多くの歴史家が研究していますが、現在でも定説と呼ばれるものは確立されていません。
 光秀の恨みや野望に端を発するという説を始めとして、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎のひとつとなっているます。

 諸説を紹介していきます。

●野望説
 明智光秀が、天下を欲しかったとする単独犯行とする説。

●怨恨説
 信長からの度重なる理不尽な行為が原因とする説。
 そのエピソードはさまざま上げられます。
  ・悪臭のする魚を出して家康の接待役を解任され、面目を失った。
   光秀は悔しがり食器を池に投げ入れた
  ・当時の敵地の出雲国伯耆国もしくは石見国に国替えを命ぜられた
  ・八上城戦で母を信長のために死なせてしまった
  ・武田氏を滅ぼした戦勝祝いの席で光秀が
   「これでわしらも骨を折ったかいがあった」
    と言ったのを信長が聞き咎め
    「おまえごときが何をしたのだ」と殴り足蹴にされて恨んだ ただし、上記の個別の事例は江戸時代以降に創作された講談や俗書によるところが多く、明確な史料に残る怨恨の事例は少ないとされています。

●四国「征伐」回避説
 信長の四国「征伐」を回避するため乱を起こしたとする説。
 明智光秀は、土佐国長宗我部元親と光秀を通じた信長との友好関係の下
で統一を進めていたところに、長宗我部氏による四国統一を良しとしない信
長が、土佐国阿波国2郡のみの領有と上洛を命じたことを、元親が拒否した
ため、四国攻め回避するために、本能寺の変をおこしたとされている説。

●焦慮説
 信長の光秀に対する信任が揺らいだと考えた謀反をおこしたという説。
 光秀は信長個人の信任もあり、異例の出世をしたが、信長の信任が揺らい
だと考えた光秀が将来を悲観し、保身のために謀叛を考えるようになったと
いう説。野望説や怨恨説ともあわせられることもある。

●理想相違説
 信長、光秀、それぞれの思い描いた理想が相違したという説。
 信長は、伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法で天下統一
を目指し急進的な改革を進めようとしたが、光秀は、衰えた室町幕府を再興
し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした。
 この理想の相違が原因になったと考えられる。

●黒幕説
 光秀自身の動機ではなく、黒幕が存在したという説。
 ・足利義昭
  自分を備後国に追放した信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い
返すために旧家臣である光秀に命じたとする説。
 ・朝廷説
朝廷側が、信長は朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかと考え、信長
を殺そうとしたという説。
 ・羽柴秀吉
 信長の死の報をいち早く入手し、備中高松城への水攻めにより殆ど戦力を
失っていなかった事から事前に変を知っていたとし、本能寺の変をきっかけ
に秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていることを根拠とする説
 ・徳川家康
 徳川家康本能寺の変の後に採用した、天海僧正南光坊)=光秀説とい
う説があり、本能寺の変に賛同、支援をしていたという説。

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 まずは、呟き尾形の色の心理学、第123回 国旗と色 2 緑一色の国旗 2についてを追加しました。

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