新選組の日

新選組の日
 2月27日は、新撰組の日です。
 新撰組の前身、壬生浪士組会津藩預りとするとする建白書が2月27日に提出されたことに由来します。
 壬生浪士組は、1862(文久2)年、庄内藩郷士清河八郎の提案で、事件が頻発している京都の警護に当る為に江戸幕府が武芸にすぐれた浪士をあつめてつくった武力組織です。
 しかし、壬生浪士組が京都に着いた途端、清河が壬生浪士組の目的は尊皇攘夷だと言い出したため、壬生浪士組は空中分解しました。
 まもなく幕府の帰還命令を受けて清河ら209名は江戸に戻りましたが、近藤勇芹沢鴨土方歳三ら24名はそのまま京都に残留し、京都守護職であった会津藩主の松平容保の配下に入って、同年8月に「新選組」と改称したのです。
 その後、約4年間にわたり、京都で尊皇攘夷派・倒幕派の弾圧を行ったそうです。
 新撰組は、非常に強い武力集団としておそれられ、1864年(元治元)の池田屋事件での活躍が有名ですが、池田屋へ突入したのは近藤勇をはじめ、沖田総司永倉新八藤堂平助新撰組きっての精鋭といえどもたったの5名に対し、相手の志士は約30名だったといわれている。実際には、新撰組の間者の山崎丞が前もって志士たちの刀を隠しておいたので、刀を失った志士たちは脇差で防戦したわけだが、討ち取り7名召し取り23名となったようであり、その強さが分かります。
 ところで、隊員の1ヶ月の手当は、局長50両、副長40両、助勤30両、平隊士10両ほどでしたが、当時は1両2分あれば、親子5人が楽に暮らせたといいます。
 新撰組の隊員数は、1865年(慶応元)ごろの最盛期には約200人にふくらみ、新撰組は、尊攘派に大きな打撃をあたえました。

 しかし、激動する時の流れは新撰組に味方することなく、1868(慶応4)年鳥羽・伏見の戦に敗れ、近藤勇が流山で捕らえられ処刑された後、土方歳三新選組の生き残りを率いて、転戦し、榎本武揚の艦隊に合流し新天地に希望を求めて蝦夷地函館に上陸しました。
 榎本武揚らは函館新政府をつくり、アジア史上初の共和国として諸外国に独立国家を宣言するとともに、朝廷にも勅許を願い出ましたが、明治政府は、容認せず、朝敵として追討指令が出ました。
 函館新政府は、徹底抗戦するも、敗戦濃厚となり降伏する気配が濃くなったとき、土方歳三は、一人敵地に飛び込んで、腹部に銃弾を受け戦死したといわれています。


 新撰組の日は、壬生浪士組会津藩預りとするとする建白書の提出された、2月27日の他に、会津藩預りが正式決定した3月13日などがあるそうです。

 





 




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